あいよ!団長です。
赤壁にて曹操を撃退した孫権軍(と、一応劉備)でした。
しかし、ボロボロになり命からがら逃げ出した曹操にとどめをさせず、曹操は許昌へ帰還します。
孫権は曹操に支配された荊州北部(南郡)を支配下にするべく軍を出します。
イエイケですなw
そこで曹仁と一戦交えますが、この戦いで周瑜は傷を負い、この傷がもとで後に36歳の若さで亡くなってしまいます。
一方、劉備はと言うと…
荊州南部の制圧に取り掛かってました。
そりゃあ、曹操の工作員として(あくまでも推測ですがw)各地を駆けずり回り続けてますからね。
いい加減、自分の地盤となる土地が欲しくなるところでしょう。
この荊州南部の攻略の際、反逆の罪で処刑されかかった黄忠と、それを助けた魏延が劉備軍に加わります。
黄忠と言えば、中国には「老黄忠」という言葉があります。
これは「老いて、なおも元気な人」という意味で、褒め言葉となります。
が、実際、黄忠の年齢は分かっていません。
一説では劉備よりも若かったのでは?と言われるほどです。
まぁ、この黄忠と魏延。
良くも悪くも、のちの劉備軍に多大な影響を与えることとなります。
劉備軍に加わると言えば、他にも馬良という文官も仲間となります。
この馬良は「白眉」という言葉で形容され、非常に優れた人の事をさす意味で使われます。
馬良は5人兄弟の長男で、5人とも学があり非常に優れていると巷では評判の兄弟ですが、長男の馬良は最も優れているとのことで、彼の特徴である白い眉毛から「白眉」という言葉が生まれました。
また、趙雲にもあるエピソードがありましてw
桂陽攻略時に降伏してきた太守の趙範が、自らの兄嫁(未亡人)を「嫁にいかが?」と趙雲へ持ちかけます。
しかし、趙雲は「あんた(趙範)は信服して降ったわけではないので信用できん!女は他にもたくさんいる」と言い放ち断ってしまいます。
まぁねぇ、結婚に焦る未婚男性でもない限り、未亡人の兄嫁を紹介されたら普通は断りますわねw
その点は趙範は失礼ですし、趙雲は的を得たことを言っていますね。
てか、趙雲はそういう贈収賄を非常に嫌う人だったようです。
そんな事をしなくても、感服した人には働いて返すし、同僚や部下は命がけでフォローする。
それが趙雲の信念だったようです。
さて荊州南部の平定も完了し、劉備は国力をつけるため奔走します。
そんな折、益州の劉璋が「漢中の張魯が妙な秘密結社(五斗米道)を作って暗躍している。うちも負けられないから味方になってうちにおいで〜」と、劉備へ依頼してきます。
更に、使者としてやってきた張松と法正は、「安愚の長・劉璋に代わり益州を治めてほしい」と劉備に申し入れます。
「いやぁ、同じ『劉』さんだからねぇ…」と、またもやワケわからん理屈で悩み始める劉備でしたが、龐統にしつこく進言され、その重い腰を上げます。
まぁ、龐統に言わせたら「アンさん、益州とったら荊州を孫権に返すと言うとりましたがな。今がチャンスなんとちゃいまっか?」となりますわねw
実はこの益州。
当時の中国では最先端のある技術を持っていた事が最近わかりました。
それは「製鉄技術」。
材木や青銅のボロい武器や防具ではなく、鉄を使った軍備が可能な場所だったんです。
その技術は、現代の製鉄方法と全く同じ方法だったようなんですね。
いやー、すごい!
まぁ、そんなこんなで劉備は、関羽や張飛、趙雲など主力は荊州に残し、黄忠や魏延ら「中途採用組」と共に益州へ向かいます。
しかし、益州では劉備の受入れを反対する声も強く、劉備の旅路は難航します。
とりあえず、益州の首都・成都へやってきた劉備軍は、劉璋から熱烈な歓迎を受けます。
歓迎会が開催された際、龐統と魏延は酔っぱらった劉璋を暗殺すべく画策しますが、それは劉備に見破られ抑えられます。
ただ、劉備はすでに腹を決めていて、「強引な侵略は恨みを買う。それより人民の信服を得るように動きなさい」と龐統を諌める発言までしています。
まぁ、諸葛亮の受け売りかもわかりませんが、益州を攻略する事は真剣に考えていたようですw
そんな中、張魯が不穏な動きを見せているとのことで、さっそく劉備は討伐に向かいます。
駐屯先でも人心の信服を得るため奔走する劉備。
すると、「曹操が孫権を攻めている」との報が入り、劉備は「孫権を助けに行く」と見せかけ、成都へ向け兵を動かしたんですね。
益州平定戦が開始されます。
しかし、益州兵の抵抗が激しく、攻略がうまく進みません。
しかも龐統が戦死してしまいます。
これには、荊州にいた主力部隊も動かざるを得ません。
関羽に荊州を任せ、諸葛亮、張飛、趙雲らが成都へ向け急行します。
総力戦と化した益州平定戦。
それでも1年以上が過ぎても決着がつかず、状況は泥沼化します。
そこへ劉備軍に救世主がさっそうと現れます。
先の戦で曹操に破れた馬超です。
曹操へ反逆の軍を起こした馬超は、賈詡の計略により破れ、行き場を失ったのです。
そこへ、たまたま近くにいた劉備を頼るべく南下していたわけです。
「西涼の錦・馬超が劉備軍についた」と聞いた益州軍はビビりあがり、ついに降伏します。
さて、ついに劉備は益州を平定することに成功しました。
…が、直後にまさかの事態が起きます。
それはまた、次回で。
赤壁にて曹操を撃退した孫権軍(と、一応劉備)でした。
しかし、ボロボロになり命からがら逃げ出した曹操にとどめをさせず、曹操は許昌へ帰還します。
孫権は曹操に支配された荊州北部(南郡)を支配下にするべく軍を出します。
イエイケですなw
そこで曹仁と一戦交えますが、この戦いで周瑜は傷を負い、この傷がもとで後に36歳の若さで亡くなってしまいます。
一方、劉備はと言うと…
荊州南部の制圧に取り掛かってました。
そりゃあ、曹操の工作員として(あくまでも推測ですがw)各地を駆けずり回り続けてますからね。
いい加減、自分の地盤となる土地が欲しくなるところでしょう。
この荊州南部の攻略の際、反逆の罪で処刑されかかった黄忠と、それを助けた魏延が劉備軍に加わります。
黄忠と言えば、中国には「老黄忠」という言葉があります。
これは「老いて、なおも元気な人」という意味で、褒め言葉となります。
が、実際、黄忠の年齢は分かっていません。
一説では劉備よりも若かったのでは?と言われるほどです。
まぁ、この黄忠と魏延。
良くも悪くも、のちの劉備軍に多大な影響を与えることとなります。
劉備軍に加わると言えば、他にも馬良という文官も仲間となります。
この馬良は「白眉」という言葉で形容され、非常に優れた人の事をさす意味で使われます。
馬良は5人兄弟の長男で、5人とも学があり非常に優れていると巷では評判の兄弟ですが、長男の馬良は最も優れているとのことで、彼の特徴である白い眉毛から「白眉」という言葉が生まれました。
また、趙雲にもあるエピソードがありましてw
桂陽攻略時に降伏してきた太守の趙範が、自らの兄嫁(未亡人)を「嫁にいかが?」と趙雲へ持ちかけます。
しかし、趙雲は「あんた(趙範)は信服して降ったわけではないので信用できん!女は他にもたくさんいる」と言い放ち断ってしまいます。
まぁねぇ、結婚に焦る未婚男性でもない限り、未亡人の兄嫁を紹介されたら普通は断りますわねw
その点は趙範は失礼ですし、趙雲は的を得たことを言っていますね。
てか、趙雲はそういう贈収賄を非常に嫌う人だったようです。
そんな事をしなくても、感服した人には働いて返すし、同僚や部下は命がけでフォローする。
それが趙雲の信念だったようです。
さて荊州南部の平定も完了し、劉備は国力をつけるため奔走します。
そんな折、益州の劉璋が「漢中の張魯が妙な秘密結社(五斗米道)を作って暗躍している。うちも負けられないから味方になってうちにおいで〜」と、劉備へ依頼してきます。
更に、使者としてやってきた張松と法正は、「安愚の長・劉璋に代わり益州を治めてほしい」と劉備に申し入れます。
「いやぁ、同じ『劉』さんだからねぇ…」と、またもやワケわからん理屈で悩み始める劉備でしたが、龐統にしつこく進言され、その重い腰を上げます。
まぁ、龐統に言わせたら「アンさん、益州とったら荊州を孫権に返すと言うとりましたがな。今がチャンスなんとちゃいまっか?」となりますわねw
実はこの益州。
当時の中国では最先端のある技術を持っていた事が最近わかりました。
それは「製鉄技術」。
材木や青銅のボロい武器や防具ではなく、鉄を使った軍備が可能な場所だったんです。
その技術は、現代の製鉄方法と全く同じ方法だったようなんですね。
いやー、すごい!
まぁ、そんなこんなで劉備は、関羽や張飛、趙雲など主力は荊州に残し、黄忠や魏延ら「中途採用組」と共に益州へ向かいます。
しかし、益州では劉備の受入れを反対する声も強く、劉備の旅路は難航します。
とりあえず、益州の首都・成都へやってきた劉備軍は、劉璋から熱烈な歓迎を受けます。
歓迎会が開催された際、龐統と魏延は酔っぱらった劉璋を暗殺すべく画策しますが、それは劉備に見破られ抑えられます。
ただ、劉備はすでに腹を決めていて、「強引な侵略は恨みを買う。それより人民の信服を得るように動きなさい」と龐統を諌める発言までしています。
まぁ、諸葛亮の受け売りかもわかりませんが、益州を攻略する事は真剣に考えていたようですw
そんな中、張魯が不穏な動きを見せているとのことで、さっそく劉備は討伐に向かいます。
駐屯先でも人心の信服を得るため奔走する劉備。
すると、「曹操が孫権を攻めている」との報が入り、劉備は「孫権を助けに行く」と見せかけ、成都へ向け兵を動かしたんですね。
益州平定戦が開始されます。
しかし、益州兵の抵抗が激しく、攻略がうまく進みません。
しかも龐統が戦死してしまいます。
これには、荊州にいた主力部隊も動かざるを得ません。
関羽に荊州を任せ、諸葛亮、張飛、趙雲らが成都へ向け急行します。
総力戦と化した益州平定戦。
それでも1年以上が過ぎても決着がつかず、状況は泥沼化します。
そこへ劉備軍に救世主がさっそうと現れます。
先の戦で曹操に破れた馬超です。
曹操へ反逆の軍を起こした馬超は、賈詡の計略により破れ、行き場を失ったのです。
そこへ、たまたま近くにいた劉備を頼るべく南下していたわけです。
「西涼の錦・馬超が劉備軍についた」と聞いた益州軍はビビりあがり、ついに降伏します。
さて、ついに劉備は益州を平定することに成功しました。
…が、直後にまさかの事態が起きます。
それはまた、次回で。